湯瀬温泉-温泉利用と温泉権-

1970年代初頭の湯瀬温泉の概況を詳述してみた。現況調査は(2010年頃)はしていない。
現況と比較して、湯瀬温泉の変遷理解の一助となれば望外の幸せである。
書きかけ中であり、一部お見苦しいところもあるかもしれないので、ご容赦頂きたいと同時に、誤記、誤述等あったらご指摘頂ければ望外の幸せである。

近世期の温泉利用と温泉権

先の「東奥遊覧」によれば、湯壷は3個有り、川端に10軒湯宿があったとされ、近世末期の湯宿が、外湯形式をとっていたような記載も見られる。

近現代の温泉利用と温泉権

明治期にはいると、湯場は1ヶ所増えて4ヶ所となる。部落総有(上村18軒・下村18軒計36軒)の湯場1(カラコの湯という)、私有泉1、一部の部落民の共同利用の湯場(上の湯・中の湯)2である。この4つの湯場が前述したように、下村の最下流域に偏在していたことから、現在に至るまで、温泉集落の機能が下村の最下流域に集中したと考えられる。
第二大区八小区花輪通湯瀬村の地引帳を見ると、部落総有の湯場も共同利用の湯場も、その源泉地盤所有者は共有の名義とはなっていない。一名しか記されていないのである。当時、入会地を部落代表者一名の記載をもって、届け出た事実が、一般的にあったと言われるので、湯瀬でも部落ないしは共有者が源泉地盤所有者の記載を代表者一名の名義でもって、届け出たのであろうか。その後、これは部落内でも大きな問題となるのである。ところで、上記の湯場の他に、自然湧出泉がわき出ていたと言われるが、利用には至らなかったと思える。湯瀬では、とにかく、前期四つの湯場が有力であり、それを中心に旅館、下宿が発生するのである。

さて、明示44年に上の湯を共同利用している利用者集団内部において、その共有の権利を巡って、証書が交わされている。
当時、この上の湯を共同浴場用として使用していたものを屋号で示すと、六助・上の湯・ヒユ・シシ・ジャタイ・ジャテカマド(ジャタイの分家)・ハンバの7軒であった。この7軒が六助と上の湯の私有地に建つ共同浴場を排他的に独占利用していたのである。そして、7軒のうち4軒は明治大正期に下宿業を営んだ者たちである。ところが、明治40年代に施行された宅地改正のため、この共同浴場の敷地の地価が倍増されることになった。このことに対して、六助と上の湯が、上の湯共同浴場組合に異議を申し立てたのである。この証書は写し取らせてもらえなかったが、大要次のようなことが書かれていた。
「今般、上の湯組合連中が湯堂敷地主六助と上の湯に旧来より借りて使っていたものを、この度、宅地改正で地価倍増となったので、2人より異議が出たので、皆で協議して、金1円50銭10ヶ年分金15円を1時に差し上げることを承認した」
そして、この時、六助を含む7人の上の湯温泉利用者集団が、六助に上の湯の管理を任せたのだと言われる。因みに、前記地引帳にはこの上の湯は温泉場として記載され、持ち主はAになっている。(湯端33番)その後、大正12年1月にも2通の証書が交わされる。1通は、六助の湯と共同浴場の利用を7人だけに限定する約定のある証書である。これらの利用関係から推定すると、上の湯の源泉の所在地の所有権は共同浴場の敷地も含めて私有であったが、その利用権は7人の共有物として観念されていたと思われる。そして共同浴場は上の湯の源泉の所在地に建っていたのではないかと思われる。ところが何らかの理由で六助の私有地の源泉(これが上の湯と言われているかもしれない)を引湯するようになり、その後、六助は自己の私有泉2つも含めて、湯瀬の源泉評価額の15%近くを所有することになり、分湯数においても、湯瀬で最大の分湯数を所有するに至るのである。

このような一部の部落民による温泉利用はもう一つあった。前述の『中の湯』である。高見シャガ・中の湯・ヨシロウの屋号で呼称される4軒が中の湯共同浴場組合を構成していた。うち3軒は明治大正期にわたって、下宿業を開業していた。現在 この組合は構成されていない上、構成当時利用していた源泉も私有となっている。その経緯については未調査である。
このように、一部の部落民の排他的な温泉利用関係は、まだ充分に明らかにされたと言えないが、明治期には4つの主要源泉のうち2つを利用する特定の温泉利用者集団2つがあり、その後、様々な変遷を辿りながら、一方は存続し、一歩は消滅するに至った。しかし、この有力な2源泉を中心として7つもの旅館予備軍とも言うべき、下宿屋が発生したことは注目に値すると思われる。

さて、部落総有のカラコの湯はどうであろうか。昭和15年、部落は今までカラコの湯の源泉地の所有名義人であったAと源泉地盤所有権の帰属を巡って対立した。部落は入会地におけるような旧慣上の所有権―ゲヴェーレの体系―を主張し、Aは源泉地盤所有権がAの名義で登記されている事実から、自分にあることを主張したが、その問題解決に日本温泉協会が介入し、日本温泉協会の問題説明と調停工作で、両者はAが源泉地盤所有権を部落に移転することで、昭和15年9月合意に達した。その内容は次の売渡証に見られる通りである。
売渡証
一金 百五〇円也
右は 前期金額を以て拙者所有の別紙記載の物件を貴殿へ永代賣渡金員正に領収仕候儀確実也 該物件に対し他より呼称申し立ル申之無候 萬一右等の場合相生じ候節は 拙者に於て一切の責ニ任じ貴殿へ御迷惑相掛ヶ間・候依テ為 後日賣渡証一切如件
昭和15年9月3日
鉱泉地2合
賣主 ○○○○○
買主 ○○○○
他35名
この結果、以後、カラコの湯の源泉は源泉地盤所有権と温泉権が一致することになったのである。そして、古くから湯瀬に住む36名の記名共有者の権利に帰属することになったのである。次に現在の温泉利用関係を知る上で、重要な関わりを持つと思われる上の湯共同組合員であったハンバを中心にして、カラコの湯事件以後の湯瀬の温泉利用(関係)の変遷上に起きた事例を紹介してみよう。
大正8年と昭和4年にかけて、ハンバは別表(後日掲載予定)の旅館番号2、5(以下ただ2・5とする)の源泉の所在地の所有権を売買・買得で獲得した。しかし、その後ハンバは家が没落し、湯瀬から夜逃同然に九州に行ったと言われる。前期の源泉地を昭和3年と昭和11年に現在の所有者が買得しているところから見て、その当時家が窮乏していたのであろう。
なお、ハンバは、大正期に農業の傍ら下宿業を営業していた。ハンバが夜逃げ同然にいなくなったことから、湯瀬部落総有のカラコの湯は共有権者35軒で構成されることになった。ところで、当時、36軒のうちの1軒においても、相続問題で話が拗れ、自己の共有持分を処分してしまった。この、ハンバともう一軒のあわせて2軒の持分を獲得するに至ったのが、前述の中の湯共同浴場組合員のヨシロウである。ヨシロウが2軒の持分を新たに獲得したことは部落側の知るところとなった。部落は話し合いの末、ヨシロウよりこの持分を50万~60万で買い戻し、事件は落着した。相続問題で話が拗れた1軒は、旧来から土着していた「家」に持分が戻された。その結果、カラコの湯は現在35軒の共有となっている。

今まで、主として部落内における3つの温泉利用者集団の温泉利用関係の変遷について概観してきた。しかし、現在そのうちの1つは消滅するに至っている。上の湯やカラコの湯の温泉利用者集団は1軒ぬけたことにより、上の湯が6軒、カラコの湯が35軒で構成されることとなった。しかし、ここで、最も注意すべきものは、彼ら利用者集団―特に下宿業等を開業したもの―が湯を集団内の共同浴場用として利用するだけ(私有泉を持っているものは別とする)に終始して、集団内でその湯を私的個別的に利用する既得権をどうして持ち得なかったかという疑問が私的には残っている。ただ、カラコの湯が9に分湯利用させている例と上の湯における8が4に源泉管理料を払って分湯している例と、この2例が現在判明している。この他は無いようである。前者は昭和12年頃、河原の湯を建て替えた際、9の廃材を利用することで関係が生じたらしい。 現在、湯瀬における特定の温泉利用者集団を構成しているのは、カラコの湯と上の湯の両共同浴場であり、上の湯の源泉は私有泉であるから、厳密な意味での、共同体的な源泉の所有はカラコの湯のみである。他はすべて私有泉である。
ここで、湯瀬の温泉所有の状況と温泉利用関係を湯瀬温泉温泉台帳詳細でみてみよう。

湯瀬温泉温泉台帳詳細

源泉所有者番号源泉所有数鉱泉地評価額(千円)動力の有無分湯数主要分湯先
112321旅館9
310164上の湯共同浴場、旅9
26571旅9(自家用)、旅8
16382旅2、旅3
1542
2489
2434旅2(自家用)
1358
1331
13171旅5
1246
1246旅1
1246
1224
1202
1192

※主要分湯先の数字は以下の旅館業者を示す。

旅館番号経営者開業年代前職出身地
RA1945~貸間客舎下宿地元
TA1926~農業地元
MY1926旅館従業員地元
TY1945~貸間客舎下宿地元
RF1965~その他県外
AA1926~貸間客舎下宿地元
RS1965その他不明
MN1926~貸間客舎下宿地元
KS1926木材業地元

分湯数は現在、判明しているものだけで9あり、最大の分湯数は上の湯共同浴場を管理下におく、源泉所有者番号②の源泉である。②は所有源泉数においても、最大である。前述してきたカラコの湯は①であるが、1源泉で評価額1232万円を示し、相当優秀な泉源であることが分かる。温泉台帳によれば、この泉源は土地登記された鉱泉地の中に3つあることになっている。この表から、特に旅館業者の分湯引湯関係―いわゆる温泉利用関係―をまとめると、自己所有源泉を旅館の内湯として使っているもの4、湯を分湯してもらっている旅館7、そのうち湯が不足するので、自己所有源泉の他に分湯してもらっているもの2である。旅館9が湯が不足して他から分湯してもらっているにも関わらず、8に分湯しているのは、8と雇用関係があったばかりでなく、3の源泉地に依然8に所有権のあった源泉地があるからである。また、源泉所有者の間に同族関係が数例あることが分かる。この他にも数例あると思われるが、判明している限りでは5例である。湯瀬はこのような同族関係、雇用関係が共同体意識と相互補完しあって、地縁的にも、血縁的にも排他的な強固な社会集団を構成している。それは湯瀬の温泉集落の立地条件―狭小地―と、無縁でない。