大滝温泉-集落の沿革-

近世以前

この温泉の起源は詳らかではないが、伝説によれば、大同2年八幡平焼山爆発の際、伊藤茂吉氏が雉子を薄に包み、土中に埋めた際に温泉を発見した(薄の湯)、あるいは、その後300 年程して、1羽の病鶴が飛来して、やがて治癒し、元気よく飛び立ったことから、温泉(鶴の湯)が発見されたともいわれる。

ところで、この大滝温泉の中心部をなす小字町頭の切絵図を見て見ると、

大滝温泉切絵図

一条の街路を軸にして、その両側に街路と直角の方向に規則的な短冊形の土地割を施していることがわかる。しかも、新田集落のように極めて整然とした土地割がなされていることから、この土地の開拓当初において、土地の均分化が施行されたことが伺える。
秋田六郡郡邑記には、享保15年当時、「大滝村廿二軒、温場有り」と記されていることから、近世中期には温泉も発見され、22戸を有する村落に成長していたことがわかる。
その後の資料はなく、安政期まで下る。安政5年頃成立したといわれる郷村史略によると、
「久保田及近村より湯治人入込、大繁華なり.元ト農業を職とせしなれども、近比湯治人*敷入込む故、貸座敷商を以て融通とす」と記されていることから、この当時すでに貸座敷商を含めかなり本格的な湯治場が確立していたことが伺える。その後、慶応2年には、切絵図に見られるように、湯治宿9軒、百姓家22軒の比較的繁華な湯治場が形成され、温泉利用形態も宿屋層を中心に確立することになる。
そのころの切絵図を注意してみると、宿屋が多く米代川沿いに立地している。これは、廃湯問題に起因するといわれている。自噴する湯を使って、それを浴槽に導き廃棄するには、浴槽を湯の取入口より更に低い位置に設ける必要があった。更にそのような位置に浴槽が設置できる宿屋が宿屋として立地できたと考えられる。しかも、泉源に近い場所でなければ温度低下を避けられない、又、(松の木を使った引湯管)引湯管の敷地問題も考えられる。このあたりの事情は大滝温泉の温泉利用と温泉権で詳しく述べている。
このようなことから、農家が貸座敷商から本格的な湯治宿経営に乗り出すに際しても、湧出する泉源に近く居を構えた農家―すなわち大滝に古くから定住した土着農家―が有利(内湯化・温泉宿舎)であったと推定される。この最古の土着農家のうち、現在も旅館業を営んでいる家の過去帳をみると、初代が宝暦10年死亡となっている。

近代以降

さて、近世末期に起った大滝温泉の湯治場としての繁栄は、湯治慣行が廃れる大正初期まで続く。
明治期には年々3~4千多い年で1万に達する湯治客が訪れたようである。
ここで、大滝村の自治の変遷を簡単にのべておこう。行政的には、江戸時代、大館佐竹藩の治下に属し、川向かいの軽井沢部落も同様であった。又、このあたりは佐竹藩と南部藩の境界線上に近かったため、争いが絶えなかったところでもある。
明治元年、戊申戦役勃発と共に、戦火に晒され、文献の殆どを焼失してしまった。明治22年4月、11ヶ村が合併して十二所町を作り、今日の大字の原型が出来上った。その後、大正4年に秋田鉄道が開通し、昭和初期には花輪・毛馬内(今の十和田)・大館間に乗合自動車の往来もでき、更に十和田国立公園の指定(昭和11年2月1日)と共に、大滝温泉は新たな局面を迎えるに至るが、第2次大戦が勃発してしまった。
昭和30年3月31日、十二所町は大館市に編入合併され、大滝温泉は大館市に属することとなった。
この間、温泉をもとにした財産区の話も出たのであるが、いかなる事情でか財産区設立には至らなかった。
市のバックアップによる、旅館業者の引湯設備改善の要求の方が勝ったとも考えられる。