大湯温泉-集落の沿革-

近世以前

大湯温泉は古くから開けた集落であり、この地方でも有名であるにもかかわらず、文献や資料か少なく、その上、議事録等の役場関連の書類も明治以降の度重なる火災によって焼失してしまったので、現在殆ど残っていない。大湯温泉は、国指定の重要文化財である大湯温泉環状列石に見られるとおり、縄文後期にはすでに開けていたと推定される。
しかし、現在の古い市街地である大湯温泉の上町と称されるところに人家ができたのは、何時頃であるか、1970年代では明らかになっていない。
温泉が利用されたのは伝説によれば、今より一千年前(延喜年間)に大和の大湯興左衛門なる者が、この地にきて、浴場を設けたのが始まりだといわれている。室町時代には、上の湯・下の湯(文明年間)が発見されている

近世

江戸時代中期(文政以前)には川原の湯が発見されているが、浴場が設けられたのは、上の湯は万治年間(1658~1660)、下の湯は延宝年間(1673~1680)だといわれている。これらの記載事実から、近世初期には何らかの温泉利用が確立したと思われ、寛政2年(1790)の北行日記には、「湯坪二つ、湯本三軒あり、下の湯とて西四五丁に湯坪二つ湯本十軒斗有り」と記されている。
そのことから近世中期から末期にかけて、温泉を利用した湯本=湯治宿ができあがったと推定される。
文政7年(1824)の鉛湯大湯浴中記には、「屋形様御湯場当時破壊して埒を廻して有」と記され、地元民の温泉利用が、城主によって、中断されている。当時、湯宿にとまった者は何らかの届けをだす定めだったとも文中には記されている。また、「・…上の湯といえる八町外れに有、先年ハ比の湯繁盛せしかども病に□うすきとて今下の湯繁栄して…」と記され、当時の湯治客の温泉利用がどのようなものであったか、又、湯治客の動向によって、大湯の地区内でも、盛衰が激しかったことが窺える。
その後の湯坪数はかわらず、近世末期に川原の湯の湯坪3つがふえただけにとどまった。
この当時、大湯には、大柴峠を経て、三戸、八戸に通ずる来満街道という往還(塩の道)が通っていたといわれ、大湯はその往還の入り口として重視されたようである。大湯川を越す危険を避けたわけである。大湯の集落は、大湯川と安久保川の合流点、山地と平野との地形上の変換点に立地し、大湯川の河岸段丘上に集落を形成し、街村型の集落景観を構成している。更に温泉の地図記号がついた地点を通る道は前述したバイパスで、昭和初期に開通したものであり、それまでは南方山側が唯一の街道であり、集落もそれに沿って発達していった。このような景観上の特徴から推して、大湯の集落は温泉集落としてより、むしろ、谷口集落としての要素をもって発達してきたことが考えられよう。
このことは大湯の温泉利用にも大きな意義をもたらしている。すなわち往還によって繁栄していく上での温泉利用と考えることができる。そのことは、「来満峠へこえて、三戸・八戸からも入湯する人もあった」という入湯客の地域構成にも反映する。したがって、往還としての利用がすたれた明治初期には、大湯の客足は絶え、温泉場としての機能は失われてしまったといわれる。

近現代

さて、大湯温泉は、藩政時代、南部藩の治下に属していたが、明治2年真田藩に属し、明治4年の廃藩置県では、江刺県の管轄となった。明治5年秋田県に編入され、明治9年8ヶ村が合併して、大湯村を構成し、同22年、草木村を合併して、今日の大字の原型はできあがった。
この時あたりに主な源泉地の地盤所有権が国家の手によって召し上げられ、官有地になったと思われる。この官有地編入は官有地第3種の地目で編入されたようであるが、その経緯は詳かではない。
明治15、6年頃には大湯川の上流、荒瀬の川畔に荒瀬の湯が発見され、浴場がたてられたという。明治38年、和井内貞行が姫鱒を十和田に放流することに成功すると、十和田は一躍有名になり、大湯はその秋田県側の基地として大きくクローズアップしてくる。しかし、この当時の入湯客を知る資料はない。その後、昭和6年に花輪線もでき、昭和10年に和井内と毛馬内間に国鉄バスが走った。こうして、十和田南・大湯・十和田湖間の交通は格段に便利になったが、一方で大湯の旧市街地が混雑する事態を引き起こした。この結果、昭和9年の都市計画指定と共に、その計画に基づき、国の補助を受けて、旧市街地の北西側、大湯川の氾濫原に旧市街地と平行に、川原の湯から大和橋へと道路を作った。この結果、大湯の集落構成は変貌し、以後バイパス沿いが集落の中心となるのである。 しかし、大湯は雪のために、又十和田への交通が途絶えるために、11月から5月までは殆ど営業=旅館営業が休止の状態であった。それは除雪機械が普及していなかったことによる。従って、観光宿泊施設の投資も不可能の状態であった。戦後、除雪機械の普及により、稼動期は拡大したが、又、スキー場の開設もあったが、依然として、通年型観光地ではなく、 そのため採算が取れない状態であるといわれている。
大湯町は昭和31年9月合併促進法に基づき、十和田町に編入合併されたが、この時黒森山の入会権(秩場)、源泉地盤所有権(前述した官有地第3種の地盤が返地されたもの、詳しいことは後述する)などをもとにして、大湯財産区制が施行された。財産区制が取られた背景には、源泉地盤所有権の上に立った、湯の排他的所有意識が働いたといわれる。更に、昭和47年には、十和田町を含む鹿角郡(旧鹿角郡)のうち、3町1村(小坂町は除く)が合併して鹿角市を構成し、鹿角市毛馬内大湯として今日に至っている。