大滝温泉-温泉利用と温泉権-

近世期の温泉利用と温泉権

部落共同体による温泉利用は、享保5年には既に何らかの形態で確立していたと推定されるが、その内容は不明である。
又、安政5年頃成立したと見られる湯治場集落の集団内部の温泉権の内容も不明である。ただ、貸座敷商を以て融通とする処から見て、湯に対する特権的地位を得ているものは、安政期にはまだ存在していなかったと見られるが、そのことを示す資料は存在しない。
しかし、その後10年もしないうちに、8軒もの宿屋が源泉から、木桶による引湯を恒常的に設置するようになる。すなわち、慶応初期には、既に集団内部の温泉利用形態は確率してしまうのである。
このことから、大滝温泉が安政初期から慶応期にかけて、湯治場として大きく繁栄し、その中で宿屋が経済的実力を握りながら、集団内部の湯に対する特権的地位を獲得していったことを知りうるのである。
ここで、慶応初期の頃の絵図を見ながら、近世末期における大滝温泉の温泉利用形態のうち、特徴的と思われる問題点をあげてみることにする。

第一に、源泉は計5ヶ所に存在していたことが知れるが、部落共同体所有と思われる様な源泉の記載がないことである。
第二に、明治・大正期を通じて、部落の共同浴場の湯元として利用され、村人に「鶴の湯」と認識されていた源泉が、この当時においては権八なる宿屋の私有泉として記載されていることである。聞き取りによれば、明治中期頃まで、この地盤所有者は日比という村人の名義であったとされているが、この当時の資料が何も残っていないので分からない上(一説には、大滝部落民は自己に都合の悪い書類を回覧又は閲覧の際、皆隠蔽してしまうので、そのうちに消失してしまうのだそうである。それ故、地引帳、絵図などがあったのであるが、皆今は無いということである。)、又、日比という村人が何者であったかを知る古老もいない。登記簿(土地台帳はない)によれば、この土地は大正14年3月に、旧十二所町に所有権移転登記がなされているが、その事由として、町有統一のため寄付と記載されているだけで、以前の所有者は書かれていない。
第三に、この権八が集団内部において、湯に対する特権的地位を得ている(自己を含めて5軒に分湯)からといって、宿泊人数も少ない上、家老職は分湯先に滞在しているところから見て、その集団内部の実力はさほど高くないことが窺えることである。
第二、第三の問題点を含めて、次の様なことが推測できる。すなわち、この湯は権八元湯とは記載されているが、それはこれを書いた右筆が、源泉地盤が権八の宅地内であるという認識をしたために記載されたことで、実際上、温泉権は権八を含む5軒が共有ないしはそれに近い権利関係で所有していたのではないかという推測である。
第四に、薄の湯はただ1軒の宿屋と「往来湯」と「滝九本」の計三ヶ処のみに使用されていることである。これは、時代毎に異なる「鶴の湯(権八元湯)」、「薄の湯」の湧出量格差を分湯数を加減することによって、解消させるためになされた利用形態であるといわれる。
「往来湯」とは部落共同浴場のことではなかろうか。近世末期までは、部落共同浴場は殆ど露天ないしは半露天に近いものであったから、この時点においても、往来を通る者達にも自由に利用させたのであろう。「滝九本」も同様であって、これが大滝の地名にもなっているといわれている。
第五に、源泉を分湯されていない宿屋が1軒あることである。文久2年開業の宿屋であるが、4年間では部落内における地位又は実力が確立しなかったのであろう。
この様に、大滝温泉では、近世末期に経済的実力を背景として、集団内部における湯に対する身分階層秩序が確立し、内部に差異を有するとはいえ、宿屋層はその特権的地位を得ていたと言えるだろう。
聞き取りによれば、この集団内部には、親方衆と子人衆と呼ばれる身分階層秩序があったといわれる。その内容はこうである。親方衆は財産のある人、資力のある人などの経済的実力所有者であり、子人衆はそのような実力を所有し得ない者又は親方衆の分家筋にあたるものだった。しかし、その支配関係は絶対的なものではなく、その経済的実力関係を土地所有で見る限りにおいて、親方衆の最高で3町歩ほどしか所有していなかったようだ。従って、親方衆は子人衆のうち2名を子人頭として、彼らとの合議制によって、部落を支配していた。しかし、そうはいっても、この親方子人制が崩壊するまでは、部落自治に関する決定権はやはり親方衆が握っていた。この決定権の一つに温泉権があり、分湯利用に対しては、親方衆の承認が必要であった。
しかし、親方子人制の崩壊する明治大正期までに、温泉が分湯されたのは、宿屋が2軒、一般3人、秋田鉄道の計6件にとどまっている。前述した廃湯問題が密接に絡んでいると思われる。
ところで、分湯上最も問題になるのは湯量の問題である。これに関する大滝の操作を知ることによって、大滝における湯の意識の一端を窺ってみよう。前述したように大滝は数少ない温泉を多くの宿屋が分湯している。従って、分湯を規制する必要があった。明治大正期にわたって、松の木を縦割りにして、その上に蓋をした配管(これは後に丸太に穴を通す木管式に変わる)を用いていたが、これの太さによって湯量を決定するのではなく、湧出口より湯がその管に流れるとき、「がん木」と呼ばれるものを立て、それをもって、湯を定量化し、分湯量を定めたといわれる。そして、「がん木」の操作は部落が行った。

共同浴場への分湯を最も大きくとったと言われる。このようなものを定めること事態に、大滝における湯の意識が、それも早期に、高かったことが知れる。

大正期の温泉利用と温泉権-温泉分譲-

次に大正4年1月に開通した秋田鉄道とそれによって惹起された部落の温泉利用関係の変化、又薄の湯の源泉地盤払下げについて触れてみる。
大正4年、秋田鉄道は大滝温泉駅を開設するが、秋田鉄道は駅開設を条件に、大滝部落に農地の宅地化とその土地に温泉を分湯することを要求した。部落はこれを了承し、現在の地番町頭32付近の農地を温泉利用権付宅地として売り出した。これを買ったのは6人である。
この結果、現在の様な地域構成も出来上がり、しかも、温泉権の拡大が見られたのである。しかし、この時の詳細な内容は部落側の資料もないため判明していない。温泉利用関係を知る上で、明らかにされねばならない問題であろう。

昭和期の温泉利用と温泉権-地盤払い下げ問題-

次に、薄の湯の温泉地盤払い下げ問題をとりあげてみたい。
昭和12年、大蔵省は鉱泉地6㎡を旧十二所町に払い下げている。しかし、大湯温泉でもそうであるのだが、官民有区分の際、この源泉がどうして官有地に編入になったかは詳らかではない。その上に払い下げの内容もその事実のみであって、詳細な内容は明らかではない。草津温泉においてもそのようなことがあったといわれるが、とにかく編入の際に、部落が地盤所有権を立証出来ないまま官有地とされたのであろう。何故ならば、その所有権が明らかであったと考える鶴の湯は官有地に編入されなかった。又、大湯温泉とあわせて、国家権力が経済的に有利な地盤を囲い込んだという推測も改めて想起される。
ところで、昭和3年、秋田県指令薬15によって、大滝部落民は温泉利用に関する特権を有せしむることとされ、温泉に関する旧慣上の権利を県より承認される形となった。しかし、昭和27年には、湯量不足の懸念もてつだって、部落は温泉管理を町に移管する協定を締結することになった。この協定には、重要な意味を持つ私有源泉権者は参加していない。協定書5において、私有泉を統一することが望ましいとしているので、この時点では、部落内でも、私有泉の源泉権者と十分な解決が図られていないことがわかる。協定書3項は2項と共に、大滝部落が湯の増量を図るために温泉を移管させ、後、湯の増量が図られた後で、湯を排他的私的個別利用したい要望がよくあらわれている。

戦後の温泉利用と温泉権-軽井沢温泉との係争-

ところで、この温泉管理が町に、又後に市に移管するのと前後して、大滝部落は対岸の軽井沢部落は旧十二所町当局、後には大館市当局まで含んで、県を巻き込む程の対立事件を起こしている。
事件の経過はこうである。
昭和27年、花岡鉱山健康保険組合(以下組合という)は大滝部落内にある保養所の飲料水確保のため(大滝部落では飲料水掘削と称して、実は温泉掘削が目的だったとしている。)、対岸の軽井沢部落と協議して、軽井沢五輪岱84番地内に第1号井を掘削し、湧出水なきため続いて、五輪岱5番地内を掘削した。ところが、出たものは低温の温泉であったので、掘削作業は直ちに中止された。軽井沢部落は大滝側に支障がない限りにおいて、これを使用することを決定して、組合と次記内容の協定を締結した。
(1) 部落が保養所建設敷地として、5反歩を組合に無償提供する(使用貸借関係)。
(2) 組合は共同浴場を建て、部落に無償で提供する。
(3) 組合は必要とする以外の湯を部落に無償で提供する。
しかし、その後組合は2号井の温泉を部落に無償で提供し、(昭和21年9月11日)(1)(2)の協定は曖昧なものとなってしまった。大滝部落は、この当時温泉湧出を知って、騒然としたが、湧出量に影響があまりなかった上、組合が飲料水探査の目的で掘削申請を出しているので、どうしようもなかったと言われる。
しかし、その後組合は、第2号井掘削の失敗で新たに第3号井の掘削を意図し、五輪岱 143番に第3号井を掘削した。ところが、予想以上の温泉が噴出し、大滝温泉の源泉が枯渇してしまったので、組合は第3号井を閉塞せざるを得なかった。(昭和28年9月)この時から、軽井沢部落と大滝部落又大滝部落側に立つ旧十二所町当局との間に対立関係が生じた。
しかし、第3号井の閉塞によっても、大滝の源泉は従前の湯量が回復しなかったので(従前の湯量の三分の一)、旧一二所町と大滝温泉は以前に掘削した第2号井も大滝の源泉に影響があるとして、軽井沢部落とこの閉塞を巡って対立し、最後には、警察が介入した事件まで起こっている。当時、旧十二所町Nは、この事態を鑑み、掘削責任者である組合を相手取り、県に告訴した。県はこれを受けて、昭和29年1月温泉法第7条の法規に基づき、第3号井を現状回復するよう、組合に命じたが、組合側が実行を長引かせるので、町長Nは知事と会談、県がこれを代執行した。組合はその後、大滝に5号井を掘削するが、自噴しなかったと言われる。組合のその後の処置については詳らかでない。
しかし、この事件を契機に、大滝の湯量不足の懸念は更に増し、泉源統一に拍車がかかるのである。

戦後の温泉利用と温泉権-泉源統一-

1970年代の大滝温泉温泉台帳

泉源名土地掘削年備考
2号井私有1952期限なしの使用貸借
4号井市有不明期限なしの使用貸借
滝の湯私有1948前特になし
労災病院の湯労働省1956特になし
芒の湯市有自然湧出1951湧出なし
鶴の湯市有自然湧出1951湧出なし
長作の湯私有自然湧出1953湧出なし
滝の湯私有自然湧出1952湧出なし
石塚第一私有自然湧出1953湧出なし
石塚第二私有自然湧出1952湧出なし
鉄道の湯国鉄自然湧出1956湧出なし

泉源統一に関して、私有泉源泉権者の権利をどう認め、どう処置したのか2つの形態を紹介してみることにする。

TYPE1(鉄道の湯)

源泉地盤(5号井)以外の土地(鉄道の湯)のために地投権を設定したもの。従って、「鉄道の湯」土地所有者国鉄(盛岡鉄道管理局)は源泉地盤所有権の変動に関わりなく源泉を支配することが出来ると言われる。なお地投権の設定期間は満99ヶ年である。国鉄は大館市に温泉受給設備維持費という名目で温泉使用料(当分1ヶ月1200円としている)を支払うことになっている。

TYPE2(長作の湯と石塚の湯)

旧来の慣行による既得権を認め、旧来の湯を無償分湯するもの。なおTYPE1と同じ様な形で使用料を払うが、契約に記した起算日より何ヶ年は使用量の何%かを減免するもの。なお、これに付帯する権利の名義変更は相続に関する件以外認められていない。

泉源統一に向けて

TYPE1とTYPE2の最も大きな違いは、1つにはTYPE1の方がより強い対抗力があると考えられること、1つにはTYPE1では引湯件に付帯する権利の名義変更は両者の協議の結果認められるとしているのに対して、TYPE2では相続による以外認められないことなどがあげられる。なお、地投権の設定によって、5号井の占有者は、大館市は勿論であるが、国鉄にも認められていると考える。
現在、これらの扱いは、大館市温泉条例第6条第2項に依る特別供給の範疇である。滝の湯は確認できなかった。
大館市は更に、昭和31年度より配管等の設備改善と共にポンプアップも企て、1分間4石を6石にして、旧十二所町当時からの湯量不足の解決を行った。この設備資金は温泉増量分を一般又は旅館業者等に売却することで充当した。大館市がこのような形をとったのは、合併他町村の思惑を考えて、大滝温泉開発に大幅な予算を投下することを避けたためであるといわれる。

泉源統一後の課題

最後に市有温泉の現状と温泉集落域の拡大という問題について触れてみよう。
現在、大滝温泉にある源泉は、前述したように5号井一つである。そして源泉又源泉地盤とも所有者は一応市となっている。それ故源泉権と源泉地盤所有権が一致し、又地方公共団体の所有となっているので、源泉の変動は考えられない。問題は温泉の供給と管理にある。
大滝温泉では温泉の供給を受けるには、市長の許可を要するが、この許可については市長の諮問機関である大館市温泉審議会(以下審議という)が市長の諮問に応じて、市長に答申することとなっている。審議会は、現在、市会議員3人、地元5人(旅館3人・一般2人)学識経験者(保健所の所長・日景温泉の社長)の計10人で構成されているから、審議会においては、どうしても地元の意見が決定的になってくる。
ところで、大館市温泉条例(以下条例という)第6条、旧慣上の温泉既得権者とそれ以外の受給者を設けているが、両者の間には大きな違いがある。
既得権者はそれ以外の受給者に比べて、使用料が半額である上、供給量不足の時は既得権者の供給が優先される。しかし、この条例における特別供給を受けるものはわずか1名であり、既得権者79名と大きな隔たりを示している。従って、新規加入者はよほどの事由が無い限り、温泉を供給してもらうことは不可能で、既得権の譲渡ないしは貸付によって、温泉供給をうけることになる。
温泉使用許可指令書交付台帳より、昭和30年から昭和50年までの温泉使用権の移動数を数えると、譲渡件数15、名義変更16、(うち相続5)、売却12、貸与4となる。しかし、その内訳は、FS氏前所有の温泉使用権が5回移動・NH氏前所有の温泉使用権が4回移動しているのが最高で、あとは2ないし1の移動が見られるのみである。そして、OGH(旅館)が2つの温泉使用権を囲い込んでいるのが目立つ程度である。このように見ていくと、旧慣上の既得権者を中心とする特定の人達が市という公法的形式を基にして、温泉権を排他的に個別利用していることがわかる。
ここで泉源統一後の温泉使用権の売買について見てみると、最近では2つの例がある。そのうちで、最も新しい例では、売買価格1升80万円で取り引きされた例があると言われる。戦前には1升5万円、戦後は1升10万円の現金取引となり、昭和50年には1升80万円まで上がったのである。
新規の普通供給の申込みがあった場合はどういう対策をとっているのであろうか。一応、大館市商工観光課が仲介となって、斡旋の労をとってくれるとも聞くが、先に述べたような事情から、交渉は大変困難であるらしい。
ところで、昭和48年から大館市は温泉の効率的利用を図るため5号井を循環式に利用する集中管理方式の工事に着手した。総工費5300万円をかけて、工事を行い、昭和49年8月落成式を挙行した。既得権の尊重と温泉使用量の削減という2つの課題を解決するため、基本控除の概念を取り入れ、超過分に使用料金単価をかけ、温泉使用料金をとっている。これは水道の料金算定と同様と考えてよい。しかし、この総工費のうち、工事費4千万円近くを今後温泉使用料金という形で、地域住民(大滝)が支払うため、一部には、かなり不満が出ているようである