湯瀬温泉-集落の沿革-

近世

温泉集落に関する沿革ははっきりとはわかっていない。1軒の宿屋の過去帳(初代 元禄14年死亡)より推定すると、近世中期頃には定住者がいたと思われる。浴場は享禄年間以前に設けられていたと言われている。現在の国道282号線にあたる鹿角街道は近世期には、現在の湯瀬を通るのではなく、八幡平の山側を経由して、盛岡方面に通じていたので、集落の成立が遅れたのであろう。
嘉永2年の東奥遊賢巻3によれば、
「湯瀬村 田畑人家少なし駅なし温泉八道より左へ行く、川端に湯宿十軒程湯壷三ヶ所有」と記され、近世末期には、湯治宿が出来上がっていたと考えられる。

近現代

藩政時代は南部藩の治下に属していた。明治に入って、一時黒羽藩の治下に属し、明治二年三戸県の所管となり、同3年江刺県の所管になった。秋田県の管轄となったのは、明治5年である。明治9年、湯瀬村を含む3ヶ村が合併して、宮麓村を構成し、明示22年宮麓村と八幡平のある長谷川村が合併して、宮川村を構成した。その後、昭和31年、八幡平国立公園が成立すると、それを契機に、宮川村は曙村と合併し、八幡平村となった。昭和47年十和田・尾去沢・花輪の3町と八幡平村が合併し、現在の鹿角市が構成された。
昭和6年頃までは、戸数約40の寒村(上村18軒・下村18軒・合計36軒)で交通も不便なためもあって、温泉集落としての開発は、大滝・大湯に比して遅れていた。
大正5年の秋田県鉱泉誌には
「…泉傍に十戸各自浴槽を置き、木桶を設けて源泉を導き、浴槽及び客室共に清潔にして、1泊20銭より35銭、自炊者は1室1週間一円、自炊器具は無料貸与……夜具は一式一夜5銭なりとす…」と記され、小規模な湯治場が形成されていた。
その後、昭和6年11月、国鉄花輪線が陸中花輪駅まで全通したことにより、湯瀬は大きく発展し、現在では、東北屈指の設備の整った温泉集落として知られるようになった。