八幡平の温泉

八幡平の温泉は、序で述べたように、泉源の多くが国有林野に属することで、温泉利用に関して国家の関与が著しく、冬季の大量の積雪(冬住み)もあり、資本の投下が進まず、その多くが1軒宿の温泉にとどまっている。トロコ温泉(廃屋?)
現況の経営状態も芳しくなく、11温泉地のうち、4温泉地が土砂崩れなどもあって閉鎖を余儀なくされている。
→写真はトロコ温泉-荒れ果てていて営業していない様子が伺える-

温泉の概況と沿革

八幡平温泉郷のある八幡平国立公園は、秋田県の中央部から北東部に位置する面積40489haの広大な国立公園で、昭和31年7月10日に、十和田八幡平国立公園の八幡平地区として追加指定された。
八幡平は、その平(たい)によって象徴される広大な高原であり、地域には、各種の火山地形が展開し、山頂附近には、多種の高山植物や湿原地帯、そして、見事なアオモリトドマツの群生が見られる。この林相が、真冬ともなると、見事な樹氷の景観美を呈する。更に、公園内には、多種多様の火山地獄―泥火山、噴泥、噴気―が見られ、同時に各所に温泉が豊富に湧出している。
地域構成は、標高 500m周辺に、志張温泉・銭川温泉・トロコ温泉の3温泉、県道十和田角館線に沿って、標高 600mのところに赤川温泉、澄川温泉、そこから13kmほど南方に、標高 740mの玉川温泉がある。また、トロコ温泉からアスピーテラインに沿って、7kmほど、東南に後生掛温泉、2km離れて、蒸の湯温泉がある。更に、9km北方に、藤七温泉がある。以上を見ていくと、八幡平温泉郷は5つの地区に分けられる。すなわち、標高 500m台の地区(トロコ、東トロコ、志張・銭川)、標高 600m台の地区(赤川・澄川)、標高 700m台の地区(玉川)、標高1000m~1100mの地区(後生掛・蒸の湯、大深)、標高1400mの地区(藤七)である。これらの温泉集落は、すべて一軒宿である。なお、志張温泉を除く八幡平温泉郷は、全て国有地に立地しており、このことが温泉利用関係にも大きく関与し、ひいては集落景観―1温泉地1経営体―にも大きく影響している。

玉川温泉

玉川温泉は、焼山火山西麓の標高 740mに位する。古くは鹿湯(酸場…スカユのなまったもの)といったこの温泉は、日本一を誇る湧出量(9000㍑/分)大噴と特別天然記念物の北投石が有名である。
この温泉は、延宝8(1680)年6月、この地に灼熱の噴湯が存在するのを発見したことによると言われる。
藩政時代は佐竹藩の治下にあり、佐竹藩はこの地で硫黄の採掘製錬を行っていた。この当時、玉川温泉の名で呼ばれていたのが、現在の玉川温泉より9km下流の、鳩の湯であった。しかし、佐竹藩が硫黄採掘事業を廃止してからは、再び人跡未踏のままに放置され、明治2(1872)年の、版籍奉還によって、国有地に編入された。
明治15(1882)年、角館町の柏谷太郎右衛門という人が、県に湯治場開設願をだしたことによって、温泉としてスタートするが、道すらないような処であり、僅かに北秋田郡阿仁前田、森吉方面の人が山越をして入湯をしに来る位であったという。玉川温泉はそれよりも、むしろ硫黄採掘や湯花採取のために開かれていたのである。
大正時代になっても、玉川までの道は、竹藪を人が歩くだけの巾に刈り払った程度で、通行する者はマタギ位のものであった。その当時藁葺き小屋が2棟あり、1棟が7、8人程度が泊まれる規模の小屋がある程度の温泉であった。しかし、名湯の評判は高かったようで、三日一巡りいかなる難病にも効くと言われ、特に田植え上りの入湯は体に効くとして、多くの入湯客を集めていたと言われる。
昭和に入って、玉川温泉は湯瀬温泉の湯瀬ホテルの買収するところとなり、以後、湯瀬ホテルが玉川温泉を開発していった。
1943年、玉川温泉に玉川温泉研究会という温泉医療の研究機関が発足、1951年、定期バスが花輪より運行され、入湯客が増加すると共に、その入湯圏は拡大した。その後、1970年には田沢湖より定期バスも運行され、19716年にはロッジ新館が完成している。
1974年当時は、株式会社、湯瀬ホテル玉川営業所という経営体をとっていて、先代の方針で、玉川は療養、保養地として育成していく考えであると言われていた。
また、開業期間は5月1日~11月10日頃となっていて、冬季間は番人を残して、下山してしまっていたが、宿泊希望者が急速に増加したため、冬季でも営業するようになった。
玉川温泉広間施設数は旅館部が3棟70室、自炊半自炊宿舎が4棟79室、あとは広間と呼ばれるものが1棟あり、この中に大浴場を含み、上を宿舎としていた。
1975年当時において、入湯客数は夏期6ヶ月で7万人、年間売上高は1億5千万円にも及ぶ大温泉地であった。
源泉の「大噴」の温度は98度、湧出量は9000㍑毎分(ドラム缶45本分)に及び、1つの源泉で、世界で4番目、北海道登別温泉の3倍、別府温泉全域(源泉数250)の5分の3というすさまじいまでの湧出量を誇る温泉である。泉質は塩酸を主成分とする含硫化水素含フッ素酸性明礬緑礬泉で、PHは 1.2という世界でも有数の強酸性泉である。
従って、玉川温泉の温泉水はこのまま浴用に用いることは出来ないので、一部を水で薄めて使用している。と同時に、湯花採取も行い、ユゼ産業KKの主要品目である石鹸に加工している。又、「大噴」一帯の地獄現象と北投石との見学をかねて、自然研究路が整備され、観光・療養・レクリエーションをかねた大規模な温泉集落を形成している。
しかし、この裏には、玉川の強酸性泉(玉川毒水)のために、下流一帯の水田は不毛化し、その水を引いた田沢湖も著しい透明度の低下や「魚が住まない」などの温泉水公害岩盤浴-雪崩後-が藩政時代より続いていることを見逃してはならない。
以前から、小児麻痺に効能があるということで知られていたが、TVでガンに効く温泉として紹介されて以来、急速に有名になった。それ以外にも、糖尿病、スモン病、心臓病など様々な病気に効能があり、岩手医大などが診療所を開設している。
近くにある蒸の湯温泉の支配人を務めた阿部真平という人が、どのような治療でどのような病気が全快したかを紹介した「世界の奇跡 玉川温泉」という本を出版しているので、玉川温泉で療養を考えている方はその本を購入すると良いだろう。
2012年2月1日午後5時ごろ、「大噴」奥にある有名な岩盤浴場で雪崩が発生、宿泊客3人が死亡するという痛ましい事故が起きたが、2012年4月20日、雪解け後の岩盤浴地の安全対策や、冬期間の利用を専門的な見地から検討するワーキンググループの設置などを実施することで、約2カ月半ぶりに再開した。

後生掛温泉

発見の年代は詳らかではないが、後生掛の名の由来については、享保年間(1716~1736)に確立したという伝説がある。
それによれば、この当時、すでに後生掛を通過する道が切り開かれていて、後生掛で、牛方をしている者があったと言われている。この牛方を巡って、本妻と妾が争い、両者は、後生に掛けて死を選んだということで、この名が付いたのだと言われる。この死を選んだ場所は、妾本妻という噴場となっているが、2つの噴場口から交互に湯が噴出する間欠泉として、知られている。
しかし、温泉の利用そのものについては、大正期に至るまでなかったようで、温泉周辺は、両国鉱山という硫黄鉱山が硫黄採掘をしていた。
大正7(1918)年に、阿部由五郎がこ後生掛温泉の地で、宿屋業(といっても湯治宿であるが)を始めたことによって、温泉地として開発されることになった。1953年に旅館部が開設され、ついで、1956年7月、集団施設地区に、1959年9月、国民保養温泉の指定を受けた。しかし、この頃はまだトロコより8㎞歩かねばならず、不便であったが、1962年、蒸の湯まで樹海ラインが通じたことで解消された。温泉は澄川源流にそって湧きだし、妾本妻・紺屋地獄・大湯沼・坊主地獄・泥火山等の後火山現象を形成し、さながら火山現象博物館ような景観を呈している。1969年に、それらを巡る自然研究路(30分)が整備された。
後生掛は1975年当時、合資会社という形態をとっており、自炊のオンドル小屋5棟、大浴場1棟、蒸し風呂1棟、旅館部・新館・食堂部・売店部が一体となった施設が2棟存在するという巨大経営体をなす。
後生掛は玉川と異なり、冬季も営業をしており、近くの国立八幡平ブナ森スキー場の格好の基地となっている。宿泊客の他に、焼山を経て、玉川温泉へ行くための基地をかねている関係で、登山客も多く、そのほか有料道路開通に伴う日帰り客、又自然研究路散策者も増加している。

蒸の湯温泉

明治17(1884)年1月発行の蒸の湯縁起によれば、宝永元(1704)年の秋、長谷川村の農民市郎治なる者が、熊を追って、山中に入り、温泉を発見したという。
藩政時代は、熊沢の湯として知られていた。
蒸の湯温泉金精神社蒸の湯の名の由来は、その入浴方法にある。
蒸の湯縁起には、入浴方法について、「……浴客湯壺に入ルノミナラズ浴後地上に菰席等を敷キコレニ即シテ其幹部を薫蒸スレハ尤治効アル…」と記され、現在のオンドル式湯治方法がすでに確立していたことが分かる。当時は6月上旬より9月中旬までを営業期間としていた。
大正期には、多い時では 500人もの湯治客で賑わい、入湯客は、主として郡内より北秋田郡、山本郡、岩手県、青森県、北海道方面などから来ていた。大正期の宿泊料金は、自炊者は1日1人12銭、宿泊者は1泊3食付で60銭であった。
こうして、遠方より来ても、長期にわたって低料金で湯治が出来る体制がととのっていたのである。大正13(1924)年には、湯治客 672人、登山宿泊客21人であったものが、道が改善されることによって、大正15(1926)年には湯治2800人、登山宿泊が400人の大温泉地に変貌した。湯治スタイルも変わり、3回1廻りで3廻り、10日間の平均滞在日数であったものが、13日となったという。
蒸の湯温泉1928年には電話も架設された。しかし、1950年当時でも、麓の坂比平から徒歩又は馬で、10kmの山道を登って行かなければならないという交通上の障害が大きかったが、アスピーテラインの前身である樹海ライン(トロコ―蒸の湯間)が完成し、大型バスも蒸の湯まで通うようになったことで一気に交通上の障害が取り除かれた。それと前後して、1957年には、蒸の湯ホテルが完成した。
しかし、そのような繁栄の最中、1972年5月、土砂崩れのため、湯治宿舎1軒、ふけの湯ホテルを残して、施設は全壊してしまった。全壊前は、1温泉地のみで、湯治宿舎(オンドル小屋)11棟、旅館部(収容50人)1棟、食堂、大浴場1棟、売店などの一大施設を有していた。1975年当時、この土地は国(林野庁)に返還されている。残念なことには、この倒壊の結果、宿泊台帳も土砂に埋もれてしまった。

藤七温泉

藤七温泉露天風呂藤七温泉は八幡平温泉郷中でも、最も高所(標高1400m)にある温泉である。
発見は、明和元(1764)年、岩手郡松尾村の漁師藤七によってなされた。
その後の経緯は定かでないが、大正の初期、湯治宿があって、入湯客もあったといわれる。しかし、経営者の死と、湯治客の減少とが重なって、1914(大正3)年には放棄されるに至り、1922(大正11)小屋も雷で倒壊してしまった。
1928(昭和3)年、阿部定一(湯瀬の姫の湯ホテル)が、温泉と土地を国(林野庁)に出願して、利用が許可され、同年8月より営業を開始した。その当時の施設は旅館1棟、湯治宿舎2棟であった。1954年増築され、1961年には増築と共に国民宿舎もできた。1961年当時、湯治客 250名であった。
その後、湯治客が来ない、フケル場所は雪害がある、歴史の重みがないため湯治客が一定しないことなどが重なって、一説には、愁訴があるため、目がやられるのだと言われ、湯治部は閉鎖されるに至った。
藤七(トウシチ)温泉彩雲荘の旧Webでは、「1930年夏、先々代社長阿部貞一が湯煙の立ち昇る地域を発見。・・・中略・・・当時の岩手県の沼宮内営林署を訪ね、国有地貸付願いを出し許可をもらい、1931年ここに旅館部とオンドル式湯治宿舎を建築し、藤七温泉を開業。」と掲載されていた(現在は掲載されていないようである)。

志張温泉

ここでは、訴訟事件まで起こしている、志張温泉について見ることにする。
志張温泉志張温泉は八幡平温泉郷の入口、熊沢川に沿った渓間の小温泉である。明治15年代以前より、湯治宿舎の経営があったと言われる。1973(昭和48)年現在は志張温泉株式会社の所有となっていて、八幡平温泉郷中でも只1ヶ所、私有地に立地する温泉である。従って、土地台帳には、志張温泉KKの所有となっており、登記簿も同様である。(手元の資料では、基本価格160万円、湧出口数2、固定資産税28800円)。このあたりは旧宮川村内の部落入会林であったといわれるが、そのことは現存する土地台帳には書かれていない。さて、問題は、この入会地が温泉まで含めていたかにある。言い換えれば、源泉地盤所有権は誰の手に帰属していたのかという事である。
このあたりの入会地は明治期の官民有区分の際、税金を納めたくないため、その殆どが国家に編入された。1938(昭和13)年12月、売買払い下げによって、明治15年代以前より湯治宿舎の経営をしていた阿部佐七にその源泉地盤所有権が払い下げられた。一説には、部落が名義上、阿部佐七にその温泉を管理させるためにそうしたのだという説もあるが、詳らかではない。その後、阿部佐七の相続人阿部政美より担保に出ていた土地を買ったのが、志張温泉KKである。購入した際に、その土地がに入会地であったことを知らないで買った可能性もあるとされている。そのことが後に訴えられる原因を作った可能性も指摘されている。
買った年1964(昭和39)年の4月、今まで原野として地目登記してあった源泉地を、鉱泉地として分筆登記した。
ところが、1970(昭和45)年、旧宮川村内の部落民3名が、自分達の入会地である源泉地盤は、自分達にもその所有権があるとして、志張温泉KKに、3千万とも言われる額で買収するよう要求してきた。志張温泉KKはこれを不当行為として、訴え、1974(昭和49)年当時は係争中であった。
(1974年当時の志張温泉の支配人である畠山氏談。志張温泉KK社長は和山謙一。)
因みに1973(昭和48)年当時の温泉台帳では以下のようになっている。
志張温泉下の湯 温泉権所有者 山崎孝造 温泉利用者 阿部佐七  48° 湧出量34.29リットル
昭和24年2月22日 許可受理
昭和39年7月7日付けで 山崎孝造に譲渡
志張温泉上の湯 温泉権所有者 山崎孝造 温泉利用者 阿部佐七 43° 湧出量14.22リットル
昭和24年2月22日 許可受理
昭和39年7月7日付けで 山崎孝造に譲渡

志張温泉KKは志張温泉元湯と1990(平成2)年に新築した志張温泉ホテルを経営していたが、1997(平成9)年5月の土石流により、休業。8月に営業再開したものの、客が減少し、2007(平成19)年秋には志張温泉ホテル閉鎖にいたってしまった。さらに、本体の志張温泉KKの経営悪化から2008年5月7日についに事業を停止し、自己破産申請の準備に入り、倒産した。負債約6500万円といわれる。
2010(平成22)年5月、土地や建物が競売に出されていることを知った現所有者の戸舘氏が落札、2011(平成23)年6月16日にリニューアルオープンした。