温泉狂

最近訪ねた秘湯を綴ってみました

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温泉権と温泉集落を研究するだけでなく、秘湯をこよなく愛する温泉大好き人間。でも先輩諸兄みたいに多くの温泉に入湯することはもうあきらめた。悲しい(T_T)

秘湯

最近ようやく行けた秘湯です。

鹿角近郊の秘湯

  • 大湯温泉川原の湯

    川原の湯源泉

    大湯温泉を秘湯と呼ぶにはいささか無理なような感じもするが、主に共同浴場を中止に紹介してみよう。なお、詳しくは温泉狂の研究_大湯温泉を参考にして頂きたい。
    大湯温泉は上流から、荒瀬・上の湯・川原の湯・下の湯の4つの地域に分かれている。指定の重要文化財である大湯温泉環状列石に見られるとおり、縄文後期にはすでに開けていたと推定される。明治5年秋田県に編入され、大湯村を構成したが、この時に主な源泉地の地盤所有権が国家の手によって召し上げられ、官有地になったと思われる。川原の湯の源泉地盤は官有地第3種として官有になり、その後、大蔵省より払い下げをうけた。払い下げは、土地台帳には大湯町となっているが、実は、大湯町長宛に払い下げられたという。各共同浴場に使用する源泉は、大湯財産区有の土地に湧出する源泉を使用しているが、川原の湯共同浴場のみが鹿角市有となってい。
    過去においては、部落の共同浴場の入浴は無料であり、その管理には、湯守(部落でぶらぶらしている人を頼んだ)があたっていた。川原の湯の源泉も部落惣村のものであった。土着の者が経営する3軒の座敷貸しがあった。そのうち、1軒が明治20年代頃、川原の湯の一部を内湯として囲い込んだといわれている。また、川原の湯には、馬を洗うための馬の湯があったといわれる。
    ナトリウムー塩化物泉(食塩泉)69.7度 PH7.7。

  • 大湯温泉下の湯

    下の湯

    下の湯は延宝年間(1673~1680)の発見といわれている。寛政2年(1790)の北行日記には、「下の湯とて西四五丁に湯坪二つ湯本十軒斗有り」と記され、文政7年(1824)の鉛湯大湯浴中記には、「・…上の湯といえる八町外れに有、先年ハ比の湯繁盛せしかども病に□うすきとて今下の湯繁栄して…」と記された。
    明治5年秋田県に編入され、大湯村を構成したが、この時に主な源泉地の地盤所有権が国家の手によって召し上げられ、官有地になったと思われる。下の湯の源泉地盤は官有地第3種として官有になり、その後、昭和10年に大蔵省より払い下げをうけている。
    明治期には部落惣村の所有として認識されていた源泉=共同浴場を中心に、座敷貸し、あるいは湯治客舎(藩政時代は長屋と呼称)といわれる宿屋が2軒立地していた。彼らは共同湯から村の承認を得て無料で木樋による引湯をしていたようである。汲み湯もあったといわれる。ナトリウムー塩化物泉(食塩泉)、58.8度 PH7.9。

  • 大湯温泉上の湯

    神の湯源泉

    上の湯は万治年間(1658~1660)の発見といわれている。寛政2年(1790)の北行日記には、「湯坪二つ、湯本三軒あり」、文政7年(1824)の鉛湯大湯浴中記には、「・…上の湯といえる八町外れに有、先年ハ比の湯繁盛せしかども病に□うすきとて今下の湯繁栄して…」と記された。
    明治期の源泉の多くは、旅館の私有泉であって、部落がこれを引湯させてもらっていたといわれるが明らかではない。上の湯の源泉の多くが水田中にあったこと、部落民が温泉に対して価値を認めていなかったことなどが要因となって、湯に対する積極的な利用意識が働かなかったと思える。

  • 大湯温泉荒瀬の湯

    荒瀬の湯

    荒瀬の湯は千葉広人という人が河畔に湧く湯を自己の内湯として利用したのが始まりである。その後一部が明治30年に所有権保存登記されたが、他に源泉地が河畔に多く湧出するので、部落民はそれを露天風呂として、あるいはその上に小屋掛けをして温泉を利用していたようである。
    ナトリウムー塩化物泉(食塩泉)53.8度 PH7.9。

  • 別所温泉全景

    別所温泉全景

    大滝温泉の西にある部落の共同浴場全景

  • 別所温泉温泉分析書

    別所温泉旧温泉分析書

    成分分析書を立派に仕上げた。
    別所温泉二号井、カルシウムーナトリウム硫酸塩泉、45.5度、1996(平成8)年

  • 別所温泉内湯

    別所温泉内湯

    内湯は綺麗に掃除されていた。断りもなく自由に入室できた。
    入浴料は100円。

  • 別所温泉成分分析書

    別所温泉温泉分析書

    温泉分析書。
    別所温泉二号井(大館市十二所字下山山葵沢38)、1996(平成8)年

  • 湯瀬温泉共同浴場

    湯瀬温泉共同浴場全景

    いわゆるカラコの湯である。1源泉で評価額1232万円を示し、相当優秀な泉源であることが分かる。温泉台帳によれば、この泉源は土地登記された鉱泉地の中に3つあることになっている。
    昭和15年、部落は今までカラコの湯の源泉地の所有名義人であったAと源泉地盤所有権の帰属を巡って対立した。部落は入会地におけるような旧慣上の所有権―ゲヴェーレの体系―を主張し、Aは源泉地盤所有権がAの名義で登記されている事実から、自分にあることを主張したが、その問題解決に日本温泉協会が介入し、日本温泉協会の問題説明と調停工作で、両者はAが源泉地盤所有権を部落に移転することで、昭和15年9月合意に達した。この結果、カラコの湯の源泉は源泉地盤所有権と温泉権が一致することになり、古くから湯瀬に住む36名の記名共有者の権利に帰属することになった。昭和49年10月から予算2千万円をもって新たに共同浴場を建築しはじめたが、部落は、この時、共同浴場の土地と部落総有の鉱泉地を市に20ヶ年の有期無償譲渡している。
    アルカリ性単純温泉、低張性55.5度 PH9.1。

  • 湯瀬温泉共同浴場内湯

    湯瀬温泉共同浴場内湯

    湯瀬温泉共同浴場の内湯

  • 大葛温泉全景

    大葛温泉全景

    大葛温泉の宿泊先は市営保養施設「比内ベニヤマ荘」。
    1964(昭和39)年の比内町のボーリングの結果、43度、580Lの温泉が湧出。この温泉を利用して1966(昭和41)年にオープンしたのが町民浴場で、無料だったが、1999(平成11)年に現在の施設が建設され、有料となった。時間の関係でこの町民浴場には入湯できなかった。
    比内ベニヤマ荘は。1968(昭和43)年に掘削、42度、250Lの温泉が湧出したことによる。
    バスは大館駅前バスターミナルより出る。ここの観光案内所はこの温泉の行き方(大谷行き、大葛温泉下車)を殆ど知らなかった。

  • 大葛温泉比内ベニヤマ荘内湯

    大葛温泉内湯

    窓から杉木立に覆われた谷が見下ろせる。浴槽内では温泉を循環利用している。町民浴場は源泉かけ流しという話だ。

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