大湯温泉-温泉利用と温泉権-

1970年代初頭の大湯温泉の概況を詳述してみた。現況調査は(2010年頃)はしていない。
現況と比較して、大湯温泉の変遷理解の一助となれば望外の幸せである。

近世期の温泉利用と温泉権

大湯温泉はその名の示すとおり、湯量が豊富である。このことは大湯における温泉利用の性格やその歴史を規定する要因にもなっている。たとえば、川原の湯・上の湯、特に上の湯などは、現在、住宅、商店、旅館等が密集して、湯量の豊富さを示す特徴がどこにあるのかと思われるほどであるが、昔、住宅や道路などができる前は、自然湧出の湯がそこかしこに湧き出ていたといわれる。(田圃の中などに)
そのようなことから、排他的な温泉利用者集団の形成もなく、従って、湯に対する権利意識も低かったと思われる。
湯の権利がいわれだしたのは戦後である。大湯温泉は前述したように資料が皆無な関係から、近世的における温泉利用形態は推測の域を出ないが、種々の資料を検討すると、下の湯などは2つないし3の源泉を利用する共同浴場の周囲に数軒の長屋と呼ばれる宿屋が立地し、長屋にきた入浴客は共同浴場に入りにいくという外湯形式をとっていたと考えられる。
共同浴場を核とする湯治場初期の囲繞的景観を構成していたわけである。

近現代の温泉利用と温泉権

明治期に入ると、幾分明らかになってくるが、文書資料がほとんど残っていないので、十分にはわかっていない。
なお、大滝温泉の項でも述べたのであるが、大湯温泉の多くの源泉地が、明治期の官民有区分の際に、官有として、国に編入されたと思われる。そのころ、部落共同体の湯として確立していた、下の湯、川原の湯の源泉地盤は官有地第3種として官有になり、その後、昭和10年に下の湯13-1が、昭和11年に川原の湯28-1が、相次いで大蔵省より払い下げをうけている。払い下げは、土地台帳には大湯町となっているが、ききとりによれば、大湯町長宛に払い下げられたという。
これらの経緯を知る資料は旧大湯町にも残っていない上、当時、国と町との橋頭堡の役割を果たしていた秋田県庁第3課地理係の事務簿にも明らかにされていない。その事務簿には、大滝温泉以外に秋田県内で源泉地盤所有権が官有である温泉地が国に源泉地盤拝借料を県をとおして、納めている事例があった。大湯温泉もそうであったか明らかではないが、何かしらの拝借料なる対価を払っていたかもしれない。
「温泉権の研究」において、草津温泉も官民有区分の際に、官有として、国に編入された例が報告されている。
それによると、草津温泉は、「…それまでに決定的な地盤所有の実質を獲得するにいたった人ないしは集団はできず、温泉に対する所有の意識も生じなかったように思われる…」であり、この結果、源泉地盤が官有地になったと述べられている。
大湯温泉-特に下の湯については-もそのような状況下にあったかもしれない。その後これらの払い下げられた源泉地盤は大湯財産区に承継され、今日に至っている。しかし、このとき、源泉権は国有、土地は町長→財産区有の協定がなされたらしいが、このときの払い下げ文書がないので明らかではない。

明治期における大湯温泉各地区の温泉利用と温泉権

ここで、明治期における各地区の温泉利用及び温泉権をのべておきたい。
(以下の叙述は主として、S氏からのききとり結果による。)

下の湯

部落惣村の所有として認識されていた源泉=共同浴場を中心に、座敷貸し、あるいは湯治客舎(藩政時代は長屋と呼称)といわれる宿屋が2軒立地していた。彼らは共同湯から村の承認を得て無料で木樋による引湯をしていたようである。汲み湯もあったといわれる。

2.川原の湯
川原の湯の源泉も部落惣村のものであった。土着の者が経営する3軒の座敷貸しがあった。そのうち、1軒、T館が明治20年代頃、川原の湯の一部を内湯として囲い込んだといわれている。また、川原の湯には、この当時、前述した谷口集落との関係で馬を洗うための馬の湯があったといわれる。
3.上の湯
明治期において、部落惣村のものとして認識されていた源泉はないといわれている。源泉の多くは、現在のT旅館の私有泉であって、部落がこれを引湯させてもらっていたといわれるが明らかではない。上の湯の源泉の多くが水田中にあったこと、部落民が温泉に対して価値を認めていなかったことなどが要因となって、湯に対する積極的な利用意識が働かなかったと思える。
4.荒瀬の湯
荒瀬の湯はTという人が河畔に湧く湯を自己の内湯として利用したのが始まりである。Tはその後一部を、明治30年に所有権保存登記したが、他に源泉地が河畔に多く湧出するので、部落民はそれを露天風呂として、あるいはその上に小屋掛けをして温泉を利用していたようである。
5.明治期における大湯温泉各地区の概観
これらを概観してみると、大湯温泉の温泉利用及び温泉権に対して次のようなことがいえるだろう。
1つには上の湯のところで記したように、部落民が温泉に対してあまり価値を認めていなかったこと。(湯量が豊富なせいもある。)従って温泉利用はあったが、積極的な源泉地盤所有権獲得までの行為に至らなかったこと。 2つめはそのような意識もあって、湯を自己の内湯として利用する排他的な特定集団(旅館層など)が発生しなかったこと。又、引湯の場合でも、部落惣村のものとして認識されていた源泉から引湯する際には「部落の主だったもの」に許可を得ればよかったこと。3つめは、前章で述べたように、昭和初期まで部落の中心は温泉湧出場所とはなれた高台の旧市街地にあったこと。従って、利用に関しては地形的な面で、制約が大きかったことなどがあげられる。

1970年代初頭の大湯温泉各地区の温泉利用と温泉権

大湯温泉温泉台帳

地区源泉数鉱泉地評価額(千円)
川原の湯93113
下の湯11260
上ノ湯174406
荒瀬の湯102653
その他2994

大湯温泉温泉台帳詳細

源泉所有者番号源泉所有数鉱泉地評価額(千円)動力の有無分湯数主要分湯先
3128591,7
11206ポンプアップ6下の湯共同浴場、9
4119813(自家用)
1840ポンプアップ2
28281612(自家用)
17202
16483
45951
25285上の湯
15041
1480011(自家用)
239004(自家用)
1389ポンプアップ4
13840荒瀬の湯
12880川原の湯
12484
121105(自家用)
12026
11930
11925
311132965

※主要分湯先の数字は以下の旅館業者を示す。

大湯の源泉は荒瀬にある2ヶ所の源泉のみが、自然湧出泉で、他はすべて、掘削(1m~150m、平均24.6m)、ポンプアップ(42m~120m)によっており、湧出口の周囲1合から32坪までの範囲で、鉱泉地としての登記がなされている。源泉の多くは地盤所有権と一致しているが、大湯財産区の区有源泉であるはずの川原の湯28の1の源泉は所有権移転登記の誤りから、現在、地盤所有権だけが鹿角市の所有となっている。源泉地の所有形態を大別すると、総数38のうち、単独私有地1、共有地2、財産区地市有地1、単独市有地であるが法人形態のもの1となっている。温泉の引湯利用者の総数は65件となっているが、温泉利用の3次的な引湯があることを考えると、65より若干の増加があるのではなかろうか。
大湯温泉の掘削の草分けは、大正10年頃といわれるが、この掘削の内容は不明である。掘削が盛んになるのは、昭和10年、大湯が大湯川の氾濫によって、大水害に見舞われた時、その復興のために、掘削がなされたときであるといわれ、、約10件に及んだといわれる大湯における鉱泉地の地目変換は昭和8年が6件と一番多く、後はその前後に1件ずつある。それ以前の地目は、宅地・農地・荒蕪地などであるが、昭和に入るまでの源泉数が推定で約7~10と考えられるから、その殆どが、この昭和8年前後に集中したわけである。県条例が改正されるために、あわててやったといわれているが、詳らかではない。
次に大湯における分湯関係を見ていこう。大湯は各地区がそれぞれ離れているので、権利関係も各地区毎に分離されている。
従って、ここでは、各地区毎に分けてのべることにする。

大湯温泉旅館詳細

旅館番号経営者開業年代前職出身地
YN1926~その他地元
KU1955~料理屋地元
ST明治その他地元
TN1945~料理屋地元
IS1926~土建業県内
SM1955~土建業地元
TS大正地主地元
TU1955~卸、小売地元
NT明治その他県内
10TS1965~土建業県内
11KH大正卸、小売県外
12TT1955~その他県外

川原の湯地区

川原の湯地区の源泉はその4割を源泉所有者番号①(以下①②③…とする)が所有し、ついで約2割を⑥が所有している。
①は現在9軒に分湯していて、そのうち2つは旅館業者である。源泉所有者⑥と旅館6(以下1、2、3、4、5、6…)は正式な契約はしていない。正式な契約とは文書を交わしていないという意味で、6は物事をあらだてないために故意にそうしないのだといわれる。しかし、口約束で一応対価は支払っている。温泉引湯が昭和20年からであるから、時効所得によって、6は温泉利用権を一応獲得したと見られる。6と⑥とは好意的な温泉利用関係であるといえるが、時効所得前は極めて不安定な地位に6がおかれていたといえる。なお、⑮の源泉は、旧大湯町時代に1ヶ処にまとめられたものだといわれる。それは高温の湯が各所に湧出していて、子供に危険だからであったらしい。

下の湯地区

下の湯地区は大正初期、現在の9のみが、共同浴の源泉から木樋による引湯をしていた。現在の9は当主が変わっているが、現在の当主はお湯がほしくて、その建物を買ったので、旅館をしたいとは思わなかったといっている。なお、9は明治期、現在の7の所有であったが、十和田湖開発のために、7の現当主が温泉権つきで、十和田湖H荘と建物を交換していたと思われる。
さて、現在、下の湯地区は、源泉がただ1つで、財産区という公法的統制の所有下にある。このことは、温泉を内湯として利用できる既得権を持つ特定の排他的な温泉利用者集団には極めて都合がよい。現に、下の湯源泉を内湯として利用できる利用者集団が構成されている。(下の湯内湯組合-5軒の貸間と9で構成)下の湯の内湯組合は、組合費をおさめて、それを個々の引湯管理設備投資用として捻出することで、構成されている集団であるらしいが、それは表向きで、筆者が推定するところ、下の湯源泉を内湯として利用しようとする新規の者への排他的な心理効果をねらったものであると思われる。しかし、このような事実があったかどうかは確かめられなかった。

上の湯地区

上の湯は源泉数も多く、湯が豊富であるが、川原の湯地区のように、上の湯の源泉評価額の大半を支配するような決定的な源泉所有者は現在皆無である。①が最もそれに近いが、3割弱を閉めているにすぎない。
掘削と分湯関係で特徴的な事例を2、3あげて、見ていこう。

① 掘削
大湯で最も分湯数の多い⑤の源泉の掘削申請は7の現当主が昭和23年にした者である。掘削は成功し、予想以上の大噴湯を見た。当時、蒲田の湯と称したらしいが、湯量が豊富なため申し込まれて、12軒に分湯した。この湯は以前、自然湧出であって、昭和10年当時、親戚や近隣の者5名に、無料で、又他へ引湯することは許さないという義務を課して、分湯していた。その後、先の事情もあって、引湯量を3尺×4尺の浴槽に使用可能な量として定め、料金は、米のその年度における公定料金をもとに、米3升分の引湯代金を決定した。 ⑫は井戸を掘るという形で、本当は温泉を掘る目的で掘削し、温泉が湧出したので、昭和30年に温泉審議会に届けたら認可されたといわれる。その当時の温泉審議会の認可基準は非常に緩かったので、認可されたといわれる。

② 分湯
分湯関係は数例あるが、そのうち③と⑱又⑧をあげる。
⑱の源泉を引湯している2は、以前⑨の源泉より引湯していたが、何物かの闇引湯のため、⑨の源泉からの送湯がなくなり、いたしかたなく、⑱と昭和12~3年に引湯の口約束をした。なお、2は⑱の母方の実家にあたる。その後、2は⑱の源泉が余るのか、さらに3軒に分湯した。どういう関係をもって特定の第三者に分湯したか不明確であるが、分湯供給施設の建築は2が行い、その工事金を分湯対価としている点が注目される。その後、種々の事情もあって、10年単位(10年毎に更新)の存続期間を持った契約に変えている。(3軒のうち2軒)なお、2は⑱に毎年、温泉引湯料の対価として、「しゃれい」を支払っている。「しゃれい」は和48年当時4万円であった。
さて、そういった関係をもって成立していた⑱と2であったが、昭和47年、⑱源泉にとって問題が起こった。3が本館改築のため地下室をほったところ、たまたま湯が湧き出した。その結果、⑱の源泉湧出量が減少し、保健所にこのことを訴えた。当然、2もこれに抗議し、事態は紛糾したかに見えたが、3が別に湯を必要としなかったため、3が③の源泉を分湯することで事態は収まった。その結果、3は今まで分湯数0であったのが1になったのである。なお、この分湯期間は⑱の源泉の湧出量が回復するまでとなっている。
これらの結果からおすと、この3-⑱-2-第三者と連続する関係は、3を頂点として、温泉引湯権を巡った互いに拘束し合う特殊な引湯権集団ということができよう。
なお、⑱は2つの他に2軒分湯しているが、1軒は分家のため、謝礼もないということであり、1軒は1ヶ月2千円位で分湯契約をしている。
ところで、これらの複数的な温泉利用関係に似たものに⑨の源泉がある。現在、財産区有となっているが、いつどのように財産区有として確立したのか、土地台帳にも記されていない。
さて、分湯数は5軒であるが、このうちS→K旅館が問題である。Sは昭和初期に引湯したといわれるが、当時の状況(宿泊営業をともなうものにしか部落有源泉を分湯しないという状況)から考えて、Sは源泉の一部を(上の湯共同浴場の鉱泉地坪数は大きい)無断引湯したものであろう。2の送湯が停止したのも、この影響であろう。その後、Sは昭和48年にK旅館に分湯した。K旅館は財産区有の源泉であることは意識していないらしい。
これらの複数的な温泉利用関係は、集中管理のときに最も問題となる。既得権をどう認めるかが大きく関係することは大滝でものべた。

荒瀬の湯地区

荒瀬の湯の温泉利用関係は十分調査はできなかった。ここでは概略を指摘することにとどめる。分湯の多くは一般民家であると推定される。⑭に分湯が見られないことは、その歴史的基盤が新しいこと、共同浴場を核とした貸間が私有泉を持っている等で、分湯がないと考える。

大湯温泉の温泉利用関係

大湯は温泉湧出個所が4つの地区にわかれているため、温泉利用関係も地区毎に異なっている。下の湯と荒瀬の湯は同じような景観を構成しているが、歴史的基盤が異なるため、前者は共同浴場の源泉からの分湯による温泉利用関係が成立し、共同浴場の源泉を利用する関係は成立していない。川原の湯も荒瀬の湯と同様である。上の湯は私有泉の成立から、後に共同浴場ができたものであり、私有泉の利用が広汎に確立している。しかし、一部の私有泉を除いて、その成立は昭和期以後になり、後発の温泉利用は既存源泉の所有者に分湯してもらっている。
大正期までは湯に対する積極的な意識がなかったために、一部には官民有区分で、源泉地盤所有が国家に編入されたりしたが、後、これらは財産区有として確立した。従って、そのような意識があるために、温泉利用者集団内部の温泉利用関係は恩恵的であり、好意的な関係が成立している。その後の存続も旧慣上そうしてきたという意識で承継されている。従って、頼まれれば分湯するし、分湯してもらった側でも、物事をあらだてないために、好意的な形で謝礼を払い、または無料で引湯してもらっている。ただ、近年、温泉の権利等の認識が高まってくるにつれ、契約書も交わし、対価も支払うという例が多く出てきた。
昭和47年より集中管理の話があったが、温泉権者のうちでも源泉所有権者の反対が多く、市も合併したばかりで乗り気でないため、進んでいない。今後、温泉の既得権をどう処理するのかが、この集中管理で一番問題となる。特に複数的な関係があった上の湯地区などは問題である。